花札は、四季の花や鳥が描かれた、見た目の美しい札です。
いまは「こいこい」や和風デザインの印象から、かわいい、きれい、日本らしい遊びとして知る人も多いと思います。
でも、少し調べると、
「賭博に使われていたらしい」
「任天堂も昔は花札を作っていた」
「韓国の 화투(ファトゥ)にもつながる」
といった話も出てきます。
では、花札はどこから来て、どう広まり、なぜ賭博のイメージまで持つようになったのでしょうか。
この記事では、花札の歴史をできるだけやさしく、
前史・成立・広まり・賭博との関係
という流れで整理していきます。
花札の起源には複数の説がありますが、少なくとも、16世紀に日本へ入った西洋系カルタ文化が、江戸時代の日本的な遊びや意匠の中で変化し、近代に広く流通する花札へつながった、という大きな流れは押さえやすいです。
花札ってどんな札?
花札は、1月から12月までの花や草木を、各月4枚ずつ描いた48枚の札です。任天堂の解説でも、1月から12月までの折々の花や草木が各月4枚ずつ描かれていると説明されています。
月ごとに札が分かれていて、松、梅、桜、藤、菖蒲、牡丹、萩、芒、菊、紅葉、柳、桐という流れで並びます。
この「季節の札」としてのまとまりの美しさが、花札の大きな魅力です。
花札の始まりはどこから?
花札の歴史を語るとき、まず出てくるのが、西洋から入ったカルタ文化です。
ポルトガル由来のカード文化が入ってきた
研究では、16世紀半ばから天正期にかけて、ラテン系・イタロポルトガル系の札が日本に入ったことが前提として扱われています。
任天堂の「花札の歴史」でも、安土桃山時代の天正かるた、江戸時代前期のうんすんかるたを経て、江戸時代中期に現在使われる花札ができたと言われています。
そのまま西洋札が残ったわけではない
ただ、入ってきた札が、そのまま今の花札になったわけではありません。
英語圏の研究では、初期江戸期にかけて、こうした札の図像が簡略化・再解釈・ローカライズされ、日本独自のカード群の土台になったと説明されています。
日本にもともとあった「合わせる文化」との関係
ここで大事なのが、日本側にも「合わせる」「見比べる」遊びの文化があったことです。
花札の前にあった感覚
英語圏の研究では、日本でカード文化が受け入れられる背景として、既存の日本の遊びや視覚文化との接続が意識されています。
そのため、花札は
外から来たカード文化と
日本にもともとあった見立てや組み合わせの感覚
が重なって形になっていったものとして見ると分かりやすいです。
花札は平安時代からあったの?
ここは言い切りすぎないほうが安全です。
平安時代の遊びは「遠い前史」として参考になる
花札そのものが平安時代にあった、とは言えません。
ただ、物を見比べたり、組み合わせたり、美しさや取り合わせを楽しんだりする日本の遊びの感覚は、花札のような札文化を受け入れる土台として考えやすいです。これは英語圏の研究を読むときにも相性のよい整理です。
花札はいつ今の形に近づいたの?
花札の成立時期は、きっぱり一つに決め切るのが難しい分野です。
江戸時代中期ごろの成立と見る説明が多い
任天堂では、江戸時代中期に現在使用している花札ができたと言われている、と紹介しています。
一方で、研究や資料の整理では、花札の起源をめぐって複数の説が紹介されることもあります。
最初から全国共通の完成形ではなかった
現在の花札のように、全国でほぼ共通のイメージが固まるまでには時間がかかりました。
日本かるた文化館では、江戸時代の「花合せ」が、のちに「花札」と呼ばれるようになった経緯や、時代によって呼び名や社会的な受け取られ方が変わったことが説明されています。
花札は最初から賭博の札だったの?
最初は家庭の遊びの面も強かった
日本かるた文化館では、江戸時代の花札・花合せは、主として女子どもの遊技具として愛好されていたと説明されています。
つまり、最初から「危ない賭博札」としてだけ広がったわけではありません。
美しい遊び道具としての顔があった
花札には、四季の花鳥風月を描いた絵札としての美しさがあります。
そのため、家庭や日常の遊び道具としての顔を持っていたことも、歴史の大事な一面です。
では、なぜ賭博のイメージがついたの?
花札のイメージが大きく変わるのは、幕末から明治前期にかけてです。
幕末には賭場でも使われるようになった
日本かるた文化館では、幕末期になると、花札が博徒の主催する賭博場でも使われるようになったと説明されています。
最初は暇つぶしのような立場だった
当初は、本格的な博奕が始まるまでの間に、早く来た客の暇つぶしとして使われていたとされます。
その後、賭博での利用が強まった
やがて、専用のめくり札やかぶ札の代わりに花札を使うことが増え、賭博用具としての性格が強まっていきました。
花札の何が賭博向きだったの?
花札そのものが急に危険になったというより、使われ方が変わっていきました。
遊び方の側が変わっていった
日本かるた文化館の説明では、花札は次第に賭博の文脈でも使われるようになり、呼び名も「花合せ」より「花札」が定着していきました。特に「花札」という言い方が広がる背景には、取締り当局が違法博奕に用いる札として見た事情があったとされています。
「花札」という名前にも時代の空気がある
江戸時代には家庭的な遊技具だったため「花札」と呼ぶ例はほとんどなく、明治前期に警察当局などが違法な博奕に用いられる「花札」と呼ぶようになり、それが定着した、という説明はかなり印象的です。
明治にはどんな扱いだったの?
明治になると、花札は遊びと賭博の両方に関わる札として見られるようになります。
子どもの遊びでもあり、大人の賭博札でもあった
日本かるた文化館では、1875年の千葉県の伺いと、1877年の大阪府の伺いを引きながら、花札が少年の遊技具でもあり、大人の賭博にも用いられる札として認識されていたことを紹介しています。
このあたりが、花札に「きれいな札」と「賭博の札」の両方の印象が残る理由です。
花札は明治にどう広まったの?
賭博との結びつきが強まる一方で、花札そのものは広く流通していきました。
近代に商品として広がった
花札は、伝統遊具であるだけでなく、近代の商品でもありました。
その象徴のひとつが任天堂です。
任天堂の始まりは花札づくりだった
任天堂の公式沿革では、1889年に山内房治郎が京都市下京区で花札の製造を開始したことが、会社の出発点として示されています。
いまのゲーム会社としての任天堂を知っている人ほど、ここは意外に感じるかもしれません。
花札は「昔の遊び」だけではない
任天堂の例を見ると、花札は単なる昔遊びではなく、近代の日本でしっかり製造・販売されていた商品だったことが分かります。
つまり花札は、
伝統文化であり、
同時に近代の流通品でもありました。
韓国の 화투 とどうつながるの?
花札の歴史は日本国内だけで終わりません。
韓国では 화투 として定着した
韓国では、日本由来の花札が 화투(ファトゥ)として広く定着しました。韓国語論文でも、「한국에 있어서 화투의 전래와 변용」は、韓国における 화투 の伝来と変容を主題にしています。
入ったあとに独自の歴史を持った
つまり、日本で生まれた札が、そのまま同じ意味で残ったわけではありません。
韓国では韓国の社会や遊びの中で、別の文化的な位置を持つようになりました。
花札の歴史を一言でいうと
花札の歴史は、
外から入ったカード文化が、日本の美意識や遊びの感覚と出会い、四季の絵札として育ち、近代には賭博や商品流通とも結びつきながら広まっていった歴史
だと言えます。
花札には今も二つの顔がある
花札には今も、二つの印象が残っています。
ひとつは、四季の花が描かれた美しい伝統文化としての顔です。
もうひとつは、幕末から明治にかけて賭博とも結びついた札としての顔です。
だからこそ花札はおもしろい
この二つをあわせて見ると、花札はただの昔遊びではありません。
日本の遊び、美意識、流通、社会の変化が重なってできた札だと見えてきます。
出典・参考文献
この記事の作成にあたっては、以下の資料を参考にしました。
花札・カルタの歴史
- M. E. W. L. Jiang, “A Short Visual History of Abstraction in Early Modern Japanese Karuta”
- 任天堂「歴史・遊びかた|花札・株札」
- 任天堂 公式沿革
日本かるた文化館
- 日本かるた文化館「花札の賭博用具化」
- 日本かるた文化館「『武蔵野』の終焉」
- 日本かるた文化館「花札の遊技法」
- 日本かるた文化館「大平与平治による花札の歴史の解説」
- 日本かるた文化館「歴史の古い花巻花札」
- 日本かるた文化館「植民地朝鮮における花札の流行」
韓国の 화투
※ 花札の起源や成立時期については諸説あります。
そのため、この記事では特定の一説だけを断定するのではなく、複数の資料をもとに、比較的共通して押さえやすい流れを中心に整理しました。








