花札は、12か月それぞれに花や草木が割り当てられ、各月4枚ずつで季節を表す遊び札です。
4月札の「藤に不如帰(ほととぎす)」は、
春が終わって夏へ切り替わる”境目”
を一枚に圧縮した札。
旧暦の場合、春真っ盛りは3月で
4月は既に初夏感あります。

4月の札は「春の終わりと初夏の合図」を一枚に圧縮している

4月札の核は、だいたい次の2つ(+飾り)です。
藤
晩春〜初夏に咲き、春の賑わいがほどけていく
“春の終わりの気配”を見せる花。
不如帰
(ほととぎす)
初夏の初音で季節の到来を告げ、
“夏の始まり”というスイッチを入れる鳥。
三日月
有明の月のように、
声の余韻と季節の境目を空に残すための背景。
※図柄の「直接の起源(これが元ネタ!)」は断定できない部分があるため、本記事では“資料で確認できる意味(象徴)”を土台に、自然な読みを提示します。
この歌が4月札の“説明書”みたいに刺さる
4月の感覚を、いちばん綺麗に言葉にしてくれているのが――万葉集のこの一首です。

| 現代語訳(趣旨): 藤の花が波のように咲きわたるのを見ると、ほととぎすが鳴く季節が近づいたと感じる。 |
「藤(目で見る春の終わり)」から「ほととぎす(耳で聞く初夏の合図)」へ、季節が切り替わる瞬間を掴んでる歌です。
だから私は、花札の4月札はこの感覚――
“花が咲くほど、次の季節の声が近い”
を絵に落とした札だと読んでいこうと思います。
藤は「春の終わり〜初夏」に咲く花

藤の見頃はだいたい4月中旬〜5月上旬にかかることが多く、春の終わりの花として体感に合います。
(例:あしかがフラワーパークの案内でも、藤の種類ごとに4月中旬〜5月中旬あたりが見頃として示されています)
桜のように“ぱっと咲いて終わり”ではなく、
房が垂れて、風に揺れて、余韻が長い花。
春の賑わいが少し落ち着いたところで、季節の空気を濃くしていく――
4月札の藤は、そういう立ち位置が似合います。
不如帰(ほととぎす)は「初夏の到来を知らせる声」

ほととぎすは、初夏に渡ってきて「夏を告げる鳥」と説明され、昔は“初音を待つ”存在でもありました。
この札で大事なのは、ほととぎすが「夏っぽい鳥」というだけじゃなくて、
“季節の到来を、声で知らせる合図“として扱われてきた点です。
藤の”見える季節”に、ほととぎすの”聞こえる季節”が差し込む。
それで、境目が一枚で伝わります。
なぜ「ほととぎすが鳴かぬなら?」ほととぎすは何の象徴だった?
「ほととぎすが鳴く」は、ただの鳴き声ではなく、季節が動く合図として待たれてきた出来事でした。
だからこそ「鳴かぬなら?」が、願いが叶わない状況の比喩として成立します。

そのイメージが分かりやすいのが、
「鳴かぬなら〜ほととぎす」という三英傑(信長・秀吉・家康)の性格たとえ話です。
信長は「殺してしまえ」
秀吉は「鳴かせてみせよう」
家康は「鳴くまで待とう」
と、同じ状況への反応の違いで人物像を描きます。
(※史実として本人たちが実際に言ったと確定できるものではなく、後世の逸話として知られるタイプのネタです)
ほととぎすが題材に選ばれたのは、
「初音を待つ」「夏の到来を告げる」など、声そのものが季節の合図になりやすい鳥だから。
だからこそ「鳴かない」をどう扱うか(動かす/待つ/排除する)で、
性格の違いが短い言葉にまとまりやすかったのでしょう。
藤に不如帰の三日月の意味は?有明の月とデザインの変遷から読む

ホトトギスと「有明の月」は、古典和歌でセットとして詠まれている
ホトトギスと「有明の月」は、古典和歌でセットとして詠まれていて、
たとえば『千載和歌集』の歌
では、”声のした方を見ても鳥は見えず、有明の月だけが残る”という情景になります。
背景は最初から三日月だったわけではない
藤にホトトギスの札は、最初から背景が固定されていたわけではなく、
「背景なし → 赤い雲 → 赤い三日月」
のように、意匠が変化してきた、と語られることがあります。
参考:日本かるた文化館(三)図像から古歌を廃した関東花札
地域・系統によっては満月の例もあり、背景の追加は「象徴」だけでなく、余白の調整や見分けやすさにも関わる“意匠の発展”として読むと安全です。
ほととぎすと有明の月は和歌の定番情景
ほととぎすの声を聞いて空を見上げると、姿はなく、月だけが残る。
この「音は消えるのに、空に残像が残る」感じが、4月札の“境目の余韻”と相性がいい。
春告げ鳥の鶯と夏を告げるほととぎすを対比すると分かりやすい
この2枚は、どちらも「花+鳥」なのに役割が違う。
梅に鶯は「春のはじまり」を告げ、藤に不如帰は「夏が近い」を告げる。
季節の境目を、”声”が動かしていく対比になっています。
2月札「梅に鶯」は、鶯が“春告げ鳥”
2月札「梅に鶯」は、鶯が“春告げ鳥”と呼ばれることからも分かる通り、鳴き声で春の到来を知らせるイメージが強い札です。
国立国会図書館の解説でも、鶯は「春告鳥」と呼ばれ、「鶯が鳴かない限り春が来たわけではない」といった和歌が引かれ、人が“春の声”を待っていた感覚が紹介されています。
また、百科事典でも「梅の花が咲くころに鳴き始めることから春告鳥とも呼ばれる」と説明されています。

4月札「藤に不如帰」は、不如帰が“夏を告げる鳥”
4月札「藤に不如帰」は、その逆向きのベクトルで、“次の季節(初夏)が近い”ことを告げる声です。
ほととぎすは飛来を待たれ、初声(初音)を聞くことが関心事だった、と辞書でも説明されています。
まとめ:万葉集の感覚が、そのまま花札4月札の芯になる
万葉集4042番歌は、
「藤が咲くのを見ると、ほととぎすの季節が近いと分かる」
という、”気配の読み方”をそのまま詠んでいます。
花札4月「藤に不如帰」は、これと同じ発想――
春の花を見て、初夏の声が近いと感じる
その瞬間を、絵に閉じ込めた札だと思います。
Q&A
- 藤に不如帰の読み方は?
-
「ふじにほととぎす」です。万葉集でもこの組み合わせが詠まれています。
- 藤にほととぎす(藤に不如帰)の意味は?
-
藤(春の終わりの花)を見て、ほととぎす(初夏を告げる声)の季節が近いと感じる――季節の切り替わりを表した組み合わせ、と読むのが自然です。
- 万葉集のどの歌が根拠?
-
巻18・4042番歌(田辺史福麻呂)です。「藤波の咲き行く見れば…」の一首として、本文・読み下し・現代語訳が整理されています。
- 藤に不如帰の三日月の意味は?
-
有明の月(夜明けに残る月)の情景を重ねた説明がよく合います。また、背景自体が後から加わった意匠の変化として語られることもあります。
- 「鳴かぬなら〜ほととぎす」は本当に三英傑の言葉?
-
史実として確認できる一次史料がある形ではなく、後世の逸話(性格たとえ話)として扱うのが安全です。
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