花札って、四季の花が描かれていて、見た目がすごくきれいですよね。
こいこいで遊ぶ札、和風でかわいい札、という印象を持っている人も多いと思います。
でも、少し歴史を見ていくと、
「昔は賭博に使われていたらしい」
「ちょっと危ないイメージがある」
みたいな話も出てきます。
そう聞くと、
花札って最初から賭博の札だったの?
と気になってきます。
この記事では、そのあたりをできるだけやさしく整理していきます。
結論から先にいうと、花札は最初から賭博専用の札だったというより、もともと遊びの札だったものが、幕末から明治にかけて賭博の場でも使われるようになり、社会の見られ方まで変わっていったと考えると分かりやすいです。
まず結論|花札は最初から賭博専用ではない
花札は、はじめから「賭博のためだけの札」として生まれた、とまでは言いにくいです。
任天堂の公式ページでも、花札は日本のかるたの一種として説明されています。
天正かるたやうんすんかるたの流れがあり、その先に、江戸時代中期ごろの花札がある、という紹介のされ方です。
つまり、出発点としてはまず
日本のカード文化の中にある札
と見たほうが自然です。
花札はカード文化の流れの中で生まれた
英語の研究では、16世紀後半に日本へ入ったポルトガル系のカード文化が、日本の中で少しずつ形を変え、独自のカード文化の土台になっていったと整理されています。
なので、花札も突然現れたというより、
外から入ってきたカード文化が、日本の中で作り変えられていった流れの中にある札
として考えると分かりやすいです。
この時点では、まだ「賭博の札」というより、まずは遊びの札、文化の札として見るほうが近いです。
では、いつ賭博と結びついたの?
じゃあ、花札はいつから賭博っぽいイメージを持つようになったのでしょうか。
ここで目安になるのが、幕末から明治前期です。
この時代に起きたのは、花札そのものが急に別物になった、というより、
花札の使われ方と、社会の側の見方が変わった
という変化でした。
変化の時代は幕末〜明治
幕末から明治にかけて、花札は賭博の場でも使われるようになっていきます。
それと同時に、明治の日本では、賭博をどう取り締まるかという法制度も整えられていきました。
つまりこの時代は、花札にとって
「ただの遊びの札」ではいられなくなっていく時代
だったとも言えます。
遊びの札としての顔は残っているのに、賭博とも結びついて見られるようになる。
そういうズレが大きくなっていった時期です。
なぜ花札は賭場に入り込みやすかったの?
ここで気になるのが、
どうして花札だったの?
というところですよね。
理由のひとつとして考えやすいのは、花札が身近な札だったことです。
もともと広く知られている札だったからこそ、賭場にも入り込みやすかった。
この見方はかなり自然です。
特別な闇の道具ではなかった
花札って、見た目だけ見るとかなり文化的です。
月ごとの花や草木が描かれていて、きれいで、日本らしくて、遊び道具としてもなじみやすい札です。
だからこそ、最初から「裏社会だけの特別な道具」だった、というより、
ふつうに知られている札が、賭けの場面でも使われるようになっていった
と考えるほうが実態に合いやすいです。
身近な遊具だからこそ、遊びにも使えるし、賭けにも使えてしまう。
花札は、そういう位置にあった札だったのだと思います。
明治の法制度は何を変えたの?
ここは少し堅く見えるけれど、実はかなり大事です。
明治になると、賭博は近代法の中ではっきり取り締まりの対象になっていきます。
つまり、昔から何となく嫌われていた、というだけではなく、
国がルールとして賭博を管理し始めた
ということです。
1882年に旧刑法が施行された
1882年には旧刑法が施行されて、賭博や賭場に関する規定が置かれました。
ここから、賭博は「なんとなくよくないもの」ではなく、
法律の中で明確に処分されるもの
として扱われていきます。
この流れは、花札そのものの問題というより、
花札のような札が置かれる社会の空気を大きく変えたはずです。
1884年には賭博犯処分規則も出た
さらに1884年には、賭博犯処分規則も出されます。
あとでこの規則は廃止されますが、それでもこの時代の日本が、賭博をかなり強く意識していたことはよく分かります。
こうなると、賭博に使われる札もまた、ただの遊び道具では済まなくなってきます。
花札もその流れの中で、
遊びの札でありながら、取り締まりの目でも見られる札
になっていったのだと思われます。
札が変わったというより、社会の見方が変わった
花札そのものが、ある日急に「危ない札」になったわけではありません。
むしろ、
社会の側が、賭博をどう見るかを変えていく中で、花札も賭博と結びつけて見られやすくなった
と考えるほうが自然です。
花札は遊びの札でもあった
花札は、賭博に使われたことがある一方で、ちゃんと遊びの札でもありました。
きれいな絵柄があって、家庭や遊びの場で親しまれていた面もあります。
だから、歴史の中での花札は、白か黒かではなくて、もっと重なった存在です。
家庭や遊びの面も残っていた
明治の花札を考えるとき、
遊びとして親しまれていた面を消してしまうのは、少しもったいないです。
花札は、賭博にも使われた。
でもそれだけではなく、遊びの札としても広く知られていた。
この両方があったからこそ、花札には独特のややこしさがあります。
花札は近代の商品でもあった
さらにもうひとつ大事なのが、花札が売られる商品でもあったことです。
文化の札、遊びの札、だけでなく、ちゃんと市場で流通する物でもあった。
任天堂の始まりは花札づくりだった
任天堂の公式沿革では、1889年に山内房治郎が京都市下京区で花札の製造を始めたことが、会社の出発点として示されています。
いまの感覚だと少し意外ですが、これはつまり、花札が明治にはすでに
作られて、売られて、広く流通する商品
だったことを示しています。
「昔の遊び」ではあるけれど、同時に近代の商売の中にもいた札だったわけです。
明治の花札は三つの顔を持っていた
ここまでを見ると、明治の花札は
- 遊びの札
- 商品として売られる札
- 賭博にも使われる札
という三つの顔を持っていたと考えられます。
この三つが同時にあるから、花札の印象は単純になりません。
きれいな札でもある。
遊ぶ札でもある。
でも賭博にも使われる。
この重なりが、そのまま花札の歴史の面白さでもあります。
なぜ今も「賭博のイメージ」が残るの?
これには、ちゃんと理由があります。
明治の社会の中で、花札賭博がある程度広く知られたものになっていたからです。
法制度の中でも賭博は問題として扱われましたし、社会の中でも「賭けに使われる札」という記憶が残っていきました。
だから今でも花札には、
「四季のきれいな札」
と
「昔の賭博の札」
の両方の印象があるわけです。
法制度だけでなく、社会の記憶にも残った
法律で取り締まられた、というだけなら、そこまで長くイメージが残らないこともあります。
でも花札の場合は、実際に賭博と結びついて語られ、使われ、見られてきた時代があった。
だからその記憶が、あとまで残りやすかったのだと思います。
つまり、賭博のイメージはただの誤解ではなく、
歴史の中で本当にそういう面があったことの名残でもあります。
花札はなぜ賭博に使われたのか
花札は、最初から賭博専用の札だったから使われたわけではありません。
むしろ、もともと広く知られた遊びの札だったからこそ賭場にも入り込みやすく、幕末から明治にかけて、取り締まりや社会の見方の変化の中で、賭博と強く結びついた札として記憶されるようになったのです。
花札は最初から危ない札だったわけではない
花札が最初から危ない札だった、という言い方だと少し強すぎます。
そうではなくて、
身近な札が、時代の流れの中で賭博の札としても読まれるようになった
と見るほうが、ずっと実態に近いです。








