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天才だった少年が、「落書き」を描けるまで~画家パブロ・ピカソ~

目次

天才だった少年が、「落書き」を描けるまで~画家パブロ・ピカソ~

パブロ・ピカソ~幼少期から晩年期までを人物史を通して考える~

「私は対象を見えるようにではなく、 私が見たままに描くのだ 」

パブロ・ピカソ(1881年10月25日 ~ 1973年4月8日)は、
スペイン生まれの画家、彫刻家、デッサン画家である。

幼少期から、彼の絵は抑圧されていた。様々な美術教師の父から英才教育によって抑圧され、出逢った女性たちに影響され、しかし、またその女性たちに抑圧されてもした。そして、9色の時代を巡って、「作品」しか書けなかった神童は「落書き」を描く少年へと変化していったのである

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ピカソが彷徨う9時代

ピカソというと、真っ先浮かぶのが「泣く女」だと言う人が多いのではないだろうか。

泣く女

しかし、これはピカソの「10の時代のうちの1つ」に過ぎないのだ。ちなみに、この泣く女の場合は、後半の「ゲルニカ」の時代に当たる。つまり、彼は「人から、絵のインスピレーションをもらっている」のだ。作風が変わっていくカメレオン画家として知られているが、それは彼が「誰かの心に寄り添うことで、絵が描けていた」つまり、「彼自身の絵」は何処にも存在しないまま、彼は彷徨い続けたのかもしれない

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時代ごとに影響を受けたであろう人達

  1. モダニズムの時代は父、変化期として1.5.妹のコンチータ
  2. 青の時代は、友人サカジェマス
  3. ばら色の時代は、恋人フェルナンド
  4. アフリカ彫刻の時代は、マチス
  5. キュビズムの時代は、セザンヌ、ブラック、恋人エヴァ
  6. 新印象派の時代は、妻オルガ
  7. シュルレアリスムは、愛人マリー
  8. ゲルニカの時代は、愛人ドラ・マール

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1.モダニズムの時代(正しさのある幼少期)

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これは彼の幼少期の時代の絵だ。

彼は、美術教師の父から教育を受けていた。正しく、綺麗に、美しく。

幼少期のピカソの絵は誰の目から見ても「完璧」な作品であり、この絵画を「落書き」と呼ぶ人は誰もいないだろう。絵とは正しくあるべきもの。

「そこにテクニックがあるほど、そこには何もなくなっていく」

彼は、「落書き」を知らない画家だった。子どもの頃、描きたいを描けなかったからだ。

1.5 妹の死、写実を崩してまで描きたかった願い

裸足の少女


14歳の時に少年ピカソが描いた作品だ。
これは、妹のコンチータを元にして描いていると言われている。
ピカソの青の時代に通じるような、悲しい感情を映す様な背景の青が印象的だ。

ここで注目したいのは、少女の手足だ。
少女だと言うのに、その手は柔らかく優しい手ではなく、力強い手をしている。
これは、コンチータに強く生きて欲しいという願いから来ている。
コンチータはジフテリアという感染症にかかっていた。

その彼女に強く生きて欲しいという、
彼の『願い』や「思い』が
『正しく描く』ことよりも上回って、力強い手足を描いたという説もある。

ピカソにとってもこの絵は想い入れの深い絵であり、
晩年まで大切に持っていた。

この絵で、初めて彼は『写実的な絵』を描くことよりも、
『想いや感情の籠った絵』を描いている様にも感じる。

2.青の時代(一人の悲しみというトラウマ)

サカジェマスの死

彼は、親友のサカジェマスと一緒にパリへ行った。
サカジェマスはジェルメーヌ。ガルガーリョに恋するのだが、失恋してしまう。そこで、彼は無理心中をする為にジュルメーヌに発砲をし、そのまま彼も死んだ。(ジュルメーヌは無事だった)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は サカジェマスの死.jpg です

サカジェマスの死、それがこの絵のタイトルである。

親友の死を受けて、彼の世界は青の時代へと移っていくのだ。

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浜辺の母子像

海辺の母子像

この作品での浜辺は、サカジェマスの思い出が詰まった場所であると言われている。

また、この絵の下には「陽気に飲酒する女性が二人描かれていた」という。

元々のモダニズムの絵を塗りつぶし、青の時代の絵へ塗りつぶしたのだと考えるのなら、この絵が青の時代最初の絵であるかも知れない。つまり、この絵がピカソにとっての「落書き」始まりの絵の可能性があるのだ。



悲しみに暮れていたある日、

一人の女性がピカソのアパートに飛び込んできた。

それが、ばら色の時代の始まりの女性「フェルナント・オリヴィエ」との出会いだった。フェルナンドと出逢ったことで、友人の死から決別することができ、彼の色彩は徐々に色づいていくのだ

3.ばら色の時代(恋と心の彩り)

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フェルナンドのポートレイト

フェルナンドのポートレイト

60作品前後という数多くの彼女のポートレイトを彼は描いた。

「化粧」この作品もフェルナンド・オリヴィエをモデルにしたという。

彼女と出逢ったことで、心の彩りを取り戻したピカソだが、彼女が何処かに行くことが不安で仕方がなかった。

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そして、その不安から彼女の友人である マルセル・アンベール(エヴァ)と恋人関係になった。

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4.アフリカ彫刻の時代(破壊という自然)


1907年、ピカソは人類博物館でアフリカの仮面や彫刻を見て感銘を受けた

また、 ピカソがアフリカ彫刻を見るきっかけになったのはマチスであるという。アンデパンダン展でのマチスの作品を見て、感銘を受けた、という説もある。


そして、セザンヌの言葉、

「自然の存在感を描くには、表情によってではなく、
形態をしっかり捉え、
しっかりした構図で描かなければならない。
自然には幾何学的な組み合わせがある。
対象を幾何形体に分解し、自然を知能で見る」

これが、キュビズムを生むきっかけになったのだ。

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5.キュビズムの時代(自由の兆し)


マ・ジョリ


「マ・ジェリ」は、「わたしのかわいい人」という意味である。

エヴァはピカソに描かれたことはなく,この作品のみが、エヴァの肖像画であると言われている。

人であることすら分からない。

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籐椅子のある静物


「総合的キュビズム」では、この 籐椅子のある静物 のように

額縁代わりにロープを使うと言った手法などをこらしている。


これは、コラージュの先駆けとなったと言われている。


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順調に、好きな絵を描くことができるようになったいたピカソ。しかし、恋人エヴァが病気の為に30歳という若さで死んでしまう。

そして、ピカソは、また新しい女性と恋人になる。

それが、ロシアバレー団のオルガ・コクロヴァである。彼女は美しく、さらに名家の出身。ご令嬢、女王様な存在であった。

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6.新印象派の時代(抑圧された自由)

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肘掛け椅子に座るオルガ

「私を描く時は、ちゃんと私だと分かるように描きなさい」


少しずつ、父からの表現の自由を取り戻していたピカソだが、 ここでオルガに写実的に書かなければならないという抑圧をされてしまう。


しかし、一般の目線から見てしまうと

この「肘掛け椅子に座るオルガ」はとても魅力的な「作品」にみえる。


しかし、ピカソは「落書き」がしたいのだ。

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腕を組んで座るサルタンバンク

この絵は隣に、女性が描かれていたといわれている。

しかし、ピカソが新しく作った愛人と別れた後に、その女性は塗りつぶされてしまった。

そのため、このサルタンバンクは抑圧に耐えかねているピカソだろう。

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1927年、彼は一目惚れをする。

「私はピカソだ。君を描かせてくれ」

ピカソは、公園で散歩をしている時に

「運命の人」と呼ぶ少女、マリー・テレーズと出逢った。

マリーはピカソのことを知らないスポーツ少女であったが、彼の言葉に応じて多くの絵のモデルとなった。オルガへの抑圧への抵抗、運命の人マリーとの出会いによって、シュルレアリスムの時代を迎えるのだ。

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7.シュルレアリスムの時代(解き放った自由)

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赤い肘掛け椅子の女


察した方は要るかも知れないが、オルガであると言われている。
先程の作品と同じ構図でオルガを反転して描いたものだろう。


肘掛け椅子に座るオルガ、 赤い肘掛椅子の女

並べてみると、とても良く似ている。

気がする。

「私を描く時は、ちゃんと私だと分かる様に描きなさい」


……恐らく、セーフだろう。

敢えて構図を変えなかったのも皮肉かもしれない。

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妻、愛人2人、ピカソの四画関係

赤い肘掛け椅子の裸婦


彼にとっては、オルガは「自分を抑圧する怪物」としか見えなくなってしまったのだ。そして、離婚をしようにも賠償金の高さに辞めざるを得なかったという。更には、マリーがピカソとの娘、マヤを産んだ後、 ピカソはマリーの肉体が魅力的だと感じなくなってしまった。そして、女流写真家であったドラ・マールと出逢う。
これで、ピカソ、オルガ、マリー、ドラの四画関係が生まれた。

愛人の座を巡ってドラとマリーが口論している際に 「私とこの子、どっちが大事なのか?」とピカソに聞く。

しかし、ピカソは「どちらかに決めるつもりはない。闘え」 と返しており、誰とも縁を切る気がない様子が伺える。

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泣く女

泣く女

泣く女はゲルニカ時代の絵だが、ドラ・マールがモデルである為に、こちらに記載する。

マリーには子どもがいるがドラには子どもがいなく、不安定な状態であった。その為、ドラはよく泣いている印象があったという。そして、ピカソはゲルニカ時代に多くの「泣く女」を残している。

「私にとってドラはいつも「泣いている女」でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもなく。ただ私自身に強制されたビジョンに従って描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」

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8.ゲルニカの時代(絵の為に絵を描く)

スペインから「パリ万博への壁画」の制作依頼を受けた。
スペインは反乱軍によってひどい内戦状態にあった。その状況をピカソの絵を以てして、伝えようとしたのだ。
しかし、4月26日ゲルニカ空襲がスペインを襲う。
無差別爆撃であり、数多くの死傷者が出た大惨劇だ。
大きな憤りを覚えたピカソは、このゲルニカでの怒りを描くべく、急遽題材を変更した。
感情のまま、その怒りを大きな大きな壁画に描いたのだ。

ゲルニカ


彼は心のままに「落書き」を描いていると言うから、言葉で伝えることは控えておこう。絵のために絵を描くのが彼だからだ。


「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。・・・もし私の絵の中の物に何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、意味を持たせようとするのは私のアイディアではない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、本能的に、そして無意識に、私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。」

(引用:PBS Treasures of the World より)

9.晩年の時代(「作品」から「落書き」へ)

「この年になって、
やっと”子どもらしい”絵が描けるようになった。」

ピカソ、晩年の言葉である。

神童の「作品」と、鬼才の「落書き」

15歳の頃から、自画像でさえ「作品」になってしまう彼は、
永遠に「落書き」を探し続けた。

それが、「青の時代」、「バラの時代」、「キュビズムの時代」、「ゲルニカの時代」……巡って、巡って、彼はやっと手に入れたのだ。


子どものような心、子どものような表現、

子どものような、彼の為の、彼だけの「落書き」を

   

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この記事を書いた人

今はゲームシナリオを書いている者です。
アナログゲームを嗜む脚本家、小説家、人狼もマダミスも好き。

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